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西安の観光スポット

青竜寺 陝西歴史博物館 華清池 藍田猿人 西安清真寺 ">西安古城壁 鐘楼 小雁塔 大雁塔 兵馬俑

青竜寺青竜寺   582年創建の寺院で711年に青竜寺と改名し現在にいたっている。遣唐**の一員として長安のやってきた空海はここで恵果和尚にで弟子入りして密教の教義を勉強した。帰国後高野山に金鋼峰寺を建立し、真言す宗の開祖となったのは余りにも有名。唐の戦乱で廃寺となってしまったが1973年に塔の土台と殿堂の跡が発見され、恵果空海記念堂と空海記念碑などが建てられるなど整備が進み、現在では日本人もよく訪ねている。
陝西歴史博物館陝西歴史博物館 陝西歴史博物館の敷地面積7万平方メートル巨大な博物館である。殷周時代の青銅器,唐代の唐三彩、南北朝時代の石仏、明清時代の陶磁器など展示されている。3000点あまりの文化財のどれも貴重なものばかり。一階の第一展示室には先史時代から秦代まで、二階の第二展示室には漢代から魏晋南北朝時代まで、二階の第三展示室には隋代から清代までの文物が陳列してある。また、お土産ものショップが充実していてレプリカ製品や写真集などがお勧めします。
華清池華清池 西安から30kmほど東の景勝地。秦代から続く温泉地で、始皇帝が離宮を設け、漢の武帝も行幸し、唐代中期には玄宗皇帝がここに華清宮を建て楊貴妃と愛の日々を送った。
この華清池は、玄宗皇帝と楊貴妃の愛を詠った「長恨歌」の舞台、そして1936年西安事件という現代史の舞台ともなった。ここには白居易の「長恨歌」を毛沢東が書いた立派な石碑がある。
唐代の華清宮は安の乱で壊滅されたが、いまの華清池は清代に再建されたものに基づいて整理修築されたものである。1982年偶然に華清宮の遺跡を発見、楊貴妃が入ったという「海棠湯」や玄宗皇帝が入ったという「蓮花湯」など唐代の浴槽も発掘・復元されている。
藍田猿人藍田猿人 陝西省南部漢中に近い険しい秦嶺山脈の山中、藍田県の陳家窩村と公王嶺にある。1963~66年にこの2か所で猿人の下顎骨と頭骸骨の化石が発見され、頭蓋骨は推定800cc程度の脳容量の平均的な原人の化石だった。この化石は推定によると、北京原人よりも更に古く、およそ100万年前のものであるとされている。合わせて藍田中国猿人・藍田直立猿人と名付けられた。略して藍田人ともいう。北京原人よりもさらに原始的と考えられるが共通点も多い。
また、この上の新しい地層からはスクレイパーなどの石器が発見された。藍田猿人が石器を**用していた痕跡が認められている。化石周辺からは熱帯系のイノシシやパンダなどの動物が発見された。今藍田原人遺跡展覧ホールに、出土した藍田中国猿人、スクレイパーなどの石器と動物の化石が40種類ほど展示されている。
西安清真寺西安清真寺 西安には八万人以上のイスラム教徒がいるという。その信徒たちの信仰の拠り所になっているのが清真寺である。清真寺西安市の鼓楼西北の化覚巷内にある。創建は唐の時代、742年。敷地面積一万三千平方メートル。ここのイスラム清真寺は中国殿式の建築物で、イスラム文化と中国文化の融合によって生まれたものである。イスラム装飾が施された中国風建築物の中でもひときわ目立っており、独自の風格をもっている。
イスラム教徒は一日五回の礼拝を行なうが、金曜日の礼拝には千人から二千人の信徒が集まる。一切を忘れひたすらアラーに祈る。それが礼拝だという。寺があるのは化覚巷。この辺りはイスラム教徒が多く住む。彼らの祖先がペルシャやアラビアから中国へ移住してきて、千二百年にわたり祖先の信仰を守り続けてきたと言うことになる。
四つの中庭が奥に向かって並ぶが、二番目の中庭の石碑坊に建つ二つの石碑には、宋代の有名書道家米芾の直筆「道法参天地」と明代の有名書道家董其昌の直筆「勅賜礼拝寺」彫られている。アラビア文字で記された回教暦の月碑など珍しい文物も保存されている。中国イスラム教の歴史と発展を研究する際の貴重な資料となっている。
西安古城壁西安古城壁 現在、西安市街地を囲んでいる城壁。隋・唐の長安城の皇城の基礎の上に明代初期に城壁が築かれた。城壁中身は土、表面はレンガで覆われて、現存する中国の城壁の内最も完璧なものである。
西安古城壁は中国の中世後期の代表的な城壁のひとつであり、古代中国人の聡明さとその才能を示しており、明代の歴史・軍事・建築などを研究するための資料となっている。城壁内面積は唐の時代の九分の一に縮小されているので唐の時代の長安城がいかに大きかったかが知られる。
東西南北にそれぞれ城楼があるが、西門はシルクロードへの出発点として有名である。昔、中国の絹はここから運び出し、西域の品々もここの門を通って中国全土に伝わった。代の西安城壁は、精巧な巨大軍事防御システムで、中国国内に現存する、最も完全な形で残る古城堡である。
鐘楼鐘楼 西安のシンボルであり、西安城内のほぼ中心に位置する。ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じている。この四つの大通りが市内の交通網の基軸となった。明の洪武17年(1384)に現在の西大街の広済街口に建立された。当時は鼓楼と東西にあい並び建っていたが万暦10年(1582)に改修し、現在の位置に移された。
鐘楼の基台は耐火煉瓦で築かれ、35.5メートル四方の方形で、高さは8.6メートル。四面に高さ・幅とも6メートルのアーチ形の通路が通じている。地上から楼頂まで高さは36メートル。木造二階建て、屋根は三重の構造になっている。
塔の上に大きな鐘が吊るされた。その周囲には八卦の模様がつけられている。彩色を施され装飾された鐘楼は美しく雄大である。昔鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わってから東西南北にある四つの城門がそれぞれ開けられたと言わたが、今は大切な文化財の鐘を保護することから撞かず、鐘音の録音放送で毎朝市民に時刻を告げている。 ある。  
小雁塔小雁塔 小雁塔は西安市の市街南方約1キロの薦福寺の境内にある。大雁塔と東西に対峙している。薦福寺は唐の文明元年(684)に高宗(在位649-683)の献福(追福)のために建立したので献福寺と命名されたが、武則天が690年にこれを改修し薦福寺とした。
小雁塔は景龍年間(707-710)に建立したが、その目的は唐代のもう一人の高僧・義浄が思起させられる。義浄は671年に洛陽を出発し、広州から海を渡ってインドに到るまで30余りの国々を訪ねた。インドで留学し695年に帰国、サンスクリット語の経典400部を持ち帰った。長安へ帰ってから薦福寺で翻訳作業を仕切り、経典56部・230巻を共訳し、玄奘以後中国仏教学上最大の功績を残した。同様の目的で建てられた慈恩寺の大雁塔よりも小さいことから小雁塔と命名された。
 小雁塔は美しく彫刻も素晴らしく、慈恩寺の勇壮な大雁塔とともに光り輝く。唐代の美しい建築芸術遺産である。初めは十五層であったが、何度か地震にあって頂部が崩れ落ち、現在は十三層になっている。楼閣式の巨大な大雁塔に対して、秀麗な姿である。
大雁塔大雁塔 大雁塔の正式名称は「慈恩寺大雁塔」、西安のシンボルである。大慈恩寺の院内にある。大慈恩寺の前身は隋代創建の無漏寺。唐の648年、三代皇帝の高宗(628~683)が太子であった時、母である文徳皇后を供養するために増改築して大慈恩寺と改称した。
紀元645年、三蔵法師玄奘がインドから大量のサンスクリット語の経典を持ち帰えると、大慈恩寺で漢訳の仕事を始めた。訳出された経典は75部1335巻に及ぶ。その経典を収蔵するために院内に建てられたのが大雁塔である。創建は652年、楼閣式のレンガ造りで、隙間は漆喰で固められレンガ壁の上に角柱がのぞく中国独特の伝統建築様式をとっている。青レンガを漆喰で塗り固めた頑丈な造りで、軒下には木造建築風の廊下があり、上へ行くほど細くなる。塔内には木製の螺旋階段があって、上へ登ることができる。各階の四面にはアーチ状の入口があり、そこから外を眺めることができる。巨大で格調高く、すっきりとしていて重厚感もある唐代建築物の傑作だ。塔創建当時はインド洋式の五層の仏塔であったが、則天武后の時代に大改造を行い十層になった。しかし、戦乱などで上部が崩壊し、現在は七層で、高さは64メートルしかない。
1300年の歴史の間、震度7以上の地震に二度、地下水位が下がるなどの被害に見舞われて、大雁塔は傾いてる。
兵馬俑兵馬俑 「20世紀最大の考古学的発見」といわれる地下軍団・兵馬俑。秦始皇陵の東にある。秦朝の将兵を模して造られた陶塑(泥人形)群である。1974年3月、陝西省臨潼県(現・西安市臨潼区)の晏寨郷西揚村の村人が、井戸を掘っているときに、思いがけずたくさんの素焼きの人形の破片を発見した。1976年、最初に発見された兵馬俑坑の北側から20メートルと25メートル離れたところで、さらに2つの兵馬俑坑が発見された。これは中国史上初めて天下を統一した秦の始皇帝の絶大な権力を示すものと考えられてきた。始皇帝の功罪については、今なお歴史学者の間で論争の的となっている。彼は感覚が鋭く思い切った行動をする。権謀に長け、残忍・冷酷無情・独善的で、贅沢な事を好む。このような姿が千年にもわたって、始皇帝の神秘性を強めている。
近年の調査によって、始皇帝が「地下帝国」ともいえる壮大な死後の世界を築こうとしていたことが明らかになり、一号坑から三号坑まで公開されている。三つの坑の面積の合計は2万平方メートルに及ぶ。さらに8千体の兵馬俑もまだその一部にすぎないことも明らかになってきた。この壮大な地下軍団は「世界の八番目の奇跡」と絶賛されている。


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